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メモ

2011.02.15 Tue
バタイユは力〔フォルス〕が力〔ピュイサンス〕になることを絶対的に否定する。ニーチェの本質的な間違いもそこにあるとみたわけだ。よくいわれるようにニーチェの学説には非個体化の原理と個体化を求める「力への意志」という相矛盾する概念が混在していて、バタイユは「力への意志」のほうを批判したのだ。

カフカの文学的営みやヨーゼフ・Kのような人物の生き方がバタイユの芸術観と符合するように思える。日本では三島由紀夫などが類似している。

それはぼく自身の芸術観とも一致するところがある。ぼくの場合はもっと悪意ある言い方で芸術とは汚物だとまで思っている。

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全体的人間 『ニーチェについて――好運への意志』

2011.01.26 Wed
全体的人間とは、その内で超越性が消滅する人、もはや何ものも分離していない人のことにほかならない。何ものも分離していない、つまり、いくぶんかおどけ者で、いくぶんか神で、いくぶんか狂人で……これが、透明性なのだ。

全体的な生は、行動の一方向〔=意味〕のかなたに位置するということである。全体的な生とは、人間が世界の中に意識的に存することだということである。ただしこの場合の人間とは無方向〔=無意味〕であって、彼自身として存在する以外に為すべきことを持たず、もはや己れを凌駕しえず、行動して何らかの方向〔=意味〕を自分に付与しえない、そういう限りでの人間である。

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頭部が不在の共同体の生起

2011.01.09 Sun
「一人の首長によって築かれるカエサル的統一性の対極にあるのは、悲劇の執拗なイメージによって結ばれた首長なき共同体である。生は人間が集団として生きることを要請するが、人間を集結させるのは一人の首長か一つの悲劇なのだ。頭なき共同体を求めることは悲劇を求めることなのだ。つまり首長を死なしめること自体が悲劇なのである。それは依然として悲劇の要請なのである。人間的事象の様相を変える一つの真理がここに始まる。すなわち共同の実存に執拗な価値を与える情動的要素は死である、という真理が」

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ブランショとバタイユの共同体の原理

2011.01.04 Tue
ふたりにとっての共同体とは、合一の成就ではない。むしろ永続的に働く合一への嫌悪が共同体の原理になる。しかしふたりには齟齬もあるのではないか、バタイユのほうがより自己破壊への傾向が強いのではないかと思う。

「完全に常軌を逸脱すること(限界の不在への自己抛棄)が、共同体の不在の規則である」『明かしえぬ共同体』(p14)

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ジャン・ジュネに関するメモ書き

2010.12.27 Mon
バタイユにとって文学は「交流」の場、しかも「本来の交流」なのである。
こうした問題設定があるなかで、彼はジュネの作品を断罪する。

「書いているジュネはその読者と交流する力も意図もないのだ。」

ジュネの至高性は「裏切られた至高性」であることが結論されている。

「交流を拒否したためジュネは至高の瞬間には到達しない。」


疑義
バタイユは体験の真理にこだわる。しかし、こういった考え方は、哲学、さらには形而上学の伝承のなかでその典型としておのれを見いだすことになるのではなかろうか。バタイユはそれを克服しようとしたのではないのか。



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