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『奇人と異才の中国史』から杜預

2013.01.15 Tue
西晋の大歴史家。孔子が整理・編纂したといわれる『春秋』の代表的な解説書である『春秋左氏伝』の研究に没頭した。
その成果である『春秋経伝集解』は『春秋』本文と『左氏伝』を実証的に対応させつつ、大系的に解釈した作品であり、中国歴史学が確立するための大きな布石となった。

『晋書』杜預伝より
時に王済 相馬を解し、又た甚だ之を愛し、和キョウは頗るシュウ斂すれば、預は常に「済に馬癖有り、キョウに銭癖有り」と称す。武帝之を聞き、預に謂いて曰く、「卿に何の癖有るや」と。答えて曰く、「臣に左伝癖有り」と。

そのとき王済は馬の見立てに秀で、また大変な馬好きであり、和キョウは蓄財に励んでいたので、杜預はつねに「済に馬癖あり、キョウに銭癖あり」と言っていた。それを聞いた武帝が杜預に向かって、「卿には何の癖があるか」と尋ねると、杜預は「臣には左伝癖がございます」と答えた。

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今ほしい本

2011.04.08 Fri
ある本を読むと何かを前提として話している、ひとつの言葉が概念として意味を内包しているから、それを知るには歴史を辿らなければならない。郵便的に受け継がれてきた言葉は眩暈がするほどの地層を持っている。正直に言って思想書を読むと意味が分からなくて読み通すことすら困難だ。

ある程度、的を絞ってみると、自分が知りたいのはニーチェ以後のシュミラクル化された世界についての本と、現象学派(フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティ、レヴィナス)の本です。

バタイユが言説とは逆に「ニーチェの非力さは救いようがない」と言っているのはよく分かる、でもまだ感覚的にしか捉えられないからクロソウスキーの『ニーチェと悪循環』は読みたい。詩人リルケの隠し子と言われている人物で弟は画家のバルテュス。バルテュスは日本人と結婚して娘が原宿かどっかで店開いてるらしい(笑) クロソウスキーはバタイユと共に秘密結社アセファルに参加してもいた(若き日の岡本太郎もバタイユグループにいた)。とても才能のある人で、ニーチェ論の最高傑作と評価されている。

僕は頗る物質的な物もなければ頗る精神的な物もない世界に生きているわけで、世界は変わらなくてもいいから言葉について厳密に考えてみたい。

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シュルレアリスム詩を書く

2011.01.21 Fri
シュルレアリスム宣言の中でアンドレ・ブルトンはこんなことを書いている。

あなたの天分、あなたの才能、またあらゆる他人のそういったものを無視したまえ。文学とは、どこへ行きつくかもわからないひどくみじめな道のひとつであるということを、しっかり自分にいいきかせたまえ。


これがシュルレアリスムの秘訣であり、意味など考える必要もない、ただ出来事だけがある。この態度は、ジョルジュ・バタイユの態度と非常に似ていて、バタイユは「聖なるもの」へ触れるため、ブルトンにとっては「至高点」を掴むため、ということになるのではないか。
真偽は、彼らについて詳しく調べたわけでもないのでわからない。ただそのようにして何も考えずに詩を作ってみたい。私が想像しているのは、たとえばアルチュール・ランボーの次の詩。

俺の大きな、性格にとっては、この現実は、荊棘に満ちすぎているとは知りながら、――俺はやっぱり、天井の玉縁に飛びかい、夜の影に翼を曳く青みがかった灰色の巨鳥となって、俺の女の家にいた。

炭火と泡。音楽は、深淵の廻転と、氷塊が星への激突。

またはブルトンの詩。

橋の上で牝猫の頭をした露が身をゆすっていた。

それからゴンドラ魚が、両手で目かくしをしながら、真珠だかドレスだかをもとめて通りすぎる。

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『芸術の非人間化』オルテガ・イ・ガセット

2011.01.18 Tue
芸術作品の中にジョンとメアリーの、あるいはトリスタンとイゾルデの心を打つ運命しか見ようとせず、それに自分の視点を合わせようとしかしない観客にとっては芸術作品は見えなくなってしまう。トリスタンの悲しみは、それが真実のものと考えられる場合にのみ悲しみであり、同情を呼び起こすことができるのだ。けれども芸術の対象はそれが真実でない場合にのみ芸術なのだ……。けれども芸術作品というガラス窓や透明体に自分の知覚装置を合わすことのできるひとびとはそう多くない。ひとびとはそうはしないで、作品を透視して、作品が扱っている人間の現実を大いに楽しむ……。十九世紀を通して芸術家たちはあまりにも不純な過程を辿ってきた。彼らは厳密に審美的な要素を最小限度にとどめ、作品はほとんど完全に人間の現実の仮構からなり立っていると考えた……こうした種類の作品(ロマン主義であろうと自然主義であろうと)は部分的にしか芸術作品でないし、芸術の対象でもない……。たしかに十九世紀の芸術は一般にあまねく行き渡っていたが……それは芸術ではなくて、人生からの抜粋である。

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ソンタグ『反解釈』証言と分析

2011.01.10 Mon
 証言と分析は違う。証言は、何かが起こったという事実を打ち立てる。分析はなぜ起こったのかを示す。証言は、定義としては、完璧な議論の一形式である。だが完璧性の代償として、証言は常に形式的である。そもそも初めから含まれていたものだけが、最後に到って立証されるにすぎない。ところが分析の場合は、理解の角度は常に限りなく、因果の領域も常に新たになる。分析は実体がある。分析は、定義としては常に不完全な論証の一形式である。正しく言えば、分析には終わりがない。
 一つの芸術作品がどの程度に証言の一形式としてあみ出されるものかは、もちろん、釣合の問題である。確かに、作品によっては他のものより形式に重点を置いて証言をより多く目指すものもある。だがやはり、ここが私の論じたいところだが、すべて芸術は形式なるものへ、実体なるものよりむしろ形式に違いない完璧性に、向かうものだ――優美と意匠を展開する終結部へ。心理的動機づけや社会的要因によって納得させることは二義的なものにすぎない。(シェイクスピアの芝居、特に喜劇の、信じられそうもない結末なのに観客を徹底的に満足させるあの終結の仕方を考えて見るがよい)。偉大な芸術の場合、これを窮極的に君臨支配するものは形式――あるいは、わたしがいままで名づけてきた言い方に従えば、分析よりは証言への欲求――である。終わりを可能にするものは、形式なのだ。『反解釈』



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