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真理に関する記述

2010.12.25 Sat
バタイユは真理をニーチェ的な意味で考える。

真理の探究は私の得意とするところではない(何よりも、私はそれを言い表す大言壮語から真理の探究を了解している)。そして、私はつぎのことを全面に押し出さなければならない。私が欲し探求しているのは、真理以上に恐怖なのだ。目くるめき横滑りが開く恐怖、思考の可能な無際限が到達する恐怖なのだ。『有罪者』

死はひとつの消滅である。それはあまりに完璧な消滅であるから、それについて語ることが不可能なほど、頂点においては充全たる沈黙がその真理なのだ。『有罪者』

私の登っている眩暈のするような坂道から、(ヘーゲルが完了の上に真理を築いたように)未完了の上に築かれた真理が今や見える。しかし、そこにはもう根拠のみかけ以外はない。『有罪者』

バタイユは内的体験に権威を認めない。真理とは、身体の内に生成する永遠に未完了なものなのである。その暴力的な体験のひとつとして笑いがある、笑いと真理の関係をつぎのように語る。

――ある事柄を笑うということとそれについての真理を有するということを私はまったく区別しなかったということ。自分が笑わなかった対象を実は見てはいないんだと考えたということ。

ニーチェも同様の事を考えていた。

いかなる爆笑によっても迎えられたことのない真理はいずれも贋物だとわれわれはみなすべきだ。『ツァラトゥストラ』

笑いは聖なるもののひとつの形態である。そしてバタイユはおそらく重苦しくそれを感じているのであって、現代思想のある種の軽さとは決定的に違っていると思われる。実際にバタイユはほとんど精神分裂の症状であったし、フロイトの弟子に治療されていた。ニーチェもクロソウスキーもアルトーもベケットもツェランもおそらくはそうだし、チェーホフも入るかもしれない。出来ることなら私も彼らのように思考したいと思う。
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